横浜山手散策 (2019-10-05)
フランス記念碑前の
ポラック会長
昨夜のスコールのような雨も翌朝は上がり安堵した。
10月5日はかながわ日仏協会の企画で横浜外国人墓地とフランス山散策、大佛次郎記念館見学となっていたが、台風15号の影響でフランス山は閉鎖されており、この日は外国人墓地と大佛次郎館のみを訪れる事となった。
会員はみなとみらい線の元町中華街駅改札に集合し、エレベーターに乗るとアメリカ山に着いた。台風の影響でさぞかし公園も荒れているであろうと思ったが、そこは手入れが行き届き、西洋様式の庭園が朝露の下美しく広がっていた。 “ここはアメリカからフランスまで飛行機に乗らなくても5,6分で行けますね” “今日はポラック会長のご案内ですから、どんなお話が伺えるか楽しみですわ” 等と話しているうちに外国人墓地に着いた。
ポラック会長は少し早く着かれここに眠るフランス人のお墓参りをしたいと管理人に伝えて下さっていた。門を入り墓地と日常的生活を仕切っている鎖を解き、我々は墓地に入った。
そこは先程の朝の光を浴びた道とは打って変わって、陰の世界から始まった。やはり台風の影響か、木々の枝が折れ道を塞ぐ所もあり、10月なのに蚊が多く飛んでいた。時折目に入る露草の青が美しく、そこだけ生があるような気がした。そこから日仏交流史家として造詣の深いポラック会長の説明が始まる。会長はフランス人のお墓を見つける度に、精力的に少々早口でお話しされた。
その個々のお墓については後で記す事にして、私はその説明を伺いながら、異郷の地で骨を埋める事になったフランス人の生涯を思う。それぞれがそれぞれの使命、宿命の中で懸命に生き、ここに眠っているのだと・・・。
先程までは私にとって何の関係性のない人々、その人々が過去から私に近づいてくる感覚。そこにはやはり一日花の露草、別名蛍草が一時の生を輝かせていた。
鮮やかな青の世界。
10月5日はかながわ日仏協会の企画で横浜外国人墓地とフランス山散策、大佛次郎記念館見学となっていたが、台風15号の影響でフランス山は閉鎖されており、この日は外国人墓地と大佛次郎館のみを訪れる事となった。
会員はみなとみらい線の元町中華街駅改札に集合し、エレベーターに乗るとアメリカ山に着いた。台風の影響でさぞかし公園も荒れているであろうと思ったが、そこは手入れが行き届き、西洋様式の庭園が朝露の下美しく広がっていた。 “ここはアメリカからフランスまで飛行機に乗らなくても5,6分で行けますね” “今日はポラック会長のご案内ですから、どんなお話が伺えるか楽しみですわ” 等と話しているうちに外国人墓地に着いた。
ポラック会長は少し早く着かれここに眠るフランス人のお墓参りをしたいと管理人に伝えて下さっていた。門を入り墓地と日常的生活を仕切っている鎖を解き、我々は墓地に入った。
そこは先程の朝の光を浴びた道とは打って変わって、陰の世界から始まった。やはり台風の影響か、木々の枝が折れ道を塞ぐ所もあり、10月なのに蚊が多く飛んでいた。時折目に入る露草の青が美しく、そこだけ生があるような気がした。そこから日仏交流史家として造詣の深いポラック会長の説明が始まる。会長はフランス人のお墓を見つける度に、精力的に少々早口でお話しされた。
その個々のお墓については後で記す事にして、私はその説明を伺いながら、異郷の地で骨を埋める事になったフランス人の生涯を思う。それぞれがそれぞれの使命、宿命の中で懸命に生き、ここに眠っているのだと・・・。
先程までは私にとって何の関係性のない人々、その人々が過去から私に近づいてくる感覚。そこにはやはり一日花の露草、別名蛍草が一時の生を輝かせていた。
鮮やかな青の世界。
露草
こうして夢中でポラック会長の説明を伺う中、予約していた昼食の時間を超えようとしていた。まだお参りできていないお墓は、次回フランス山散策と共に企画することにして、昼食会場の山手ローズテラスに向かった。
レストランの窓からは横浜港が一望でき、皆で楽しく昼食を取った後、次の訪問先である大佛次郎記念館へと移動する。この建物は「フランスと大佛次郎」というテーマで浦辺鎮太郎が設計し、外観はアーチ型の屋根と赤レンガの外壁からなり、非常に特徴のある建物である。内部は、一階から二階までロビーが吹き抜けとなっていて、二階天井付近の壁には七つの灯があり、その洋灯の上に大佛次郎が愛した猫が座っていた。無類の猫好きと聞いていたがなるほど・・・。我が協会の会員でもあり、ここの学芸員であられるY女史が「花と語らう −大佛次郎の花ごよみ」の解説をして下さった。
お話によると、大佛次郎の小説・随筆・エッセイには、多くの花・草木が登場しているそうである。二階ケースに、彼が書いた花の一節を抜粋し、それに合わせて花の絵や写真等が添えられ展示されていた。それは、作家がどれだけ花を好んだか伝わるものであった。中でも大佛次郎が10月のキンモクセイについて、 “母がこの月に私を生み、ホッとした時に、この花の匂いを嗅いだと思うと感慨を覚える”という趣旨で書いており、それで自宅の庭にキンモクセイを植えていたと言う。
母との結び付きをこの香りで繋げていた作家の人柄に心温かく感じて館を後にした。港の見える丘公園の展望台で、少々横浜港とそこに横たわるベイブリッジ、そして本牧ふ頭と眺め、横浜の風景を満喫して、帰途についた。
墓地に眠る人々を色々と考えたこの度であるが、フランス山の風は清々しく吹いていた。
レストランの窓からは横浜港が一望でき、皆で楽しく昼食を取った後、次の訪問先である大佛次郎記念館へと移動する。この建物は「フランスと大佛次郎」というテーマで浦辺鎮太郎が設計し、外観はアーチ型の屋根と赤レンガの外壁からなり、非常に特徴のある建物である。内部は、一階から二階までロビーが吹き抜けとなっていて、二階天井付近の壁には七つの灯があり、その洋灯の上に大佛次郎が愛した猫が座っていた。無類の猫好きと聞いていたがなるほど・・・。我が協会の会員でもあり、ここの学芸員であられるY女史が「花と語らう −大佛次郎の花ごよみ」の解説をして下さった。
お話によると、大佛次郎の小説・随筆・エッセイには、多くの花・草木が登場しているそうである。二階ケースに、彼が書いた花の一節を抜粋し、それに合わせて花の絵や写真等が添えられ展示されていた。それは、作家がどれだけ花を好んだか伝わるものであった。中でも大佛次郎が10月のキンモクセイについて、 “母がこの月に私を生み、ホッとした時に、この花の匂いを嗅いだと思うと感慨を覚える”という趣旨で書いており、それで自宅の庭にキンモクセイを植えていたと言う。
母との結び付きをこの香りで繋げていた作家の人柄に心温かく感じて館を後にした。港の見える丘公園の展望台で、少々横浜港とそこに横たわるベイブリッジ、そして本牧ふ頭と眺め、横浜の風景を満喫して、帰途についた。
墓地に眠る人々を色々と考えたこの度であるが、フランス山の風は清々しく吹いていた。
港の見える丘公園から
横浜ベイブリッジ
大佛次郎記念館内
本と猫に囲まれた大佛の書斎(復元)
【訪れた墓】
マザー・マチルドの墓
マイヨの墓
◆ 6区4 メクル Mecre.Alphonse 1846−1917 横浜居留地のフランス人医師。山手の一般病院(現在 山手病院)の院長となる。 1917年 死去 妻アンナも同じ墓に眠る。 ◆ 10区80A シャンボン Chambon,Jean Alexis 1875−1948 1899 パリ外国宣教会宣教師として来日。函館に赴任。一関教会に転任。 第一次世界大戦で帰国。戦後再来日。 1928 東京大司教就任。東京大神学校設立。 1937 横浜司教となる。 1940 引退 1948 病院で倒れ、横浜ゼネラル・ホスピタルで死去。 ◆ 10区17 ヘンヌカール Hennecart,Marguerite 1870−1940 1903 来日。 1905 日本サンモール修道会総長に任命される。 東京築地の女子語学校校長に就任。 1909 雙葉高等女学校設立。 サンモール修道会は貧困子女の為の学校設立。 1928 日本政府より勲6等瑞宝章授与 1936 フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章授与 横浜紅蘭女学校歴任。 1940 死去。 サンモール修道会の墓地にマチルド修道女、 ウイルフレッド修道女、フエルナンド修道女と共に眠る。 ◆ 10区19 サンモール修道会修道女が眠る。 マルトウ 1844−1905 ロザリー 1885−1957 ◆ 10区44 マイヨ Maillot,Henry 1831−1874 1870 大学南校(東京大学)のフランス語と物理学の教師として来日。 1874.8.14 休暇滞在中の横浜ホテルで病死。 墓碑に「法蘭西国人理学士邁誉君之墓」とある。 ◆ 10区17 ラクロ Raclot,Marie Justine 1814−1911 サンモール修道会修道女 1872 4人の修道女を連れ来日。神戸で、A,ヴィリオン神父を助け孤児の養育に当たる。 1875 東京築地に新栄女子学院と語学校設立。横浜居留地内にサンモールスクール創立。 貧困家庭の子女を教育する仁慈堂(董女学院)設立。 1899 紅蘭女学校(横浜雙葉学園)創立 1903 静岡に不二女学校(静岡雙葉学園)設立。 1911 97歳で死去。 ◆ 11区83D ゲスラー Gaessler,Jaseph ?−1961 1901 聖マリア会宣教師として来日。 東京九段の暁星学校でフランス語を教える。横浜セントジョセフ学校でもフランス語を教える。 子供達から「ゲッチャン」の愛称で慕われる。 1961 横浜で死去。 ◆ 13区71 サルダ Sarda,Poul 1850−1905 1873 日本政府に招かれ来日。海軍省横須賀造船所付属学校の機械学教官となる。 1877 東京大学で数学、重学(力学)の教師となる。その後、横浜で建築家としてゲーテ座、 指路教会大会堂、フランス領事館、グランドホテル等の設計を行った。 1905 死去。55歳 ◆ 14区 アンドレ・ルコント Andre,Lecomte 1932−1999 1963 ホテルオークラのシエフ、パティシエとして来日。砂糖菓子の彫刻 を日本初で広める。フランスの味と材料、レシピにこだわり、万事フランス流が信念。 皇室、フランス大使館、政府官庁御用達で都内に何店舗も開店させる。 友人に、ポール・ボキューズ、ジョエル・ロブション、ピエール・エルメ、 日本のパンの父フィリップ・ビゴ、故シラク大統領等がいる。 1999 死去。68歳
マッセの墓
◆ 16区14 マッセ Massais,Emile 1836−1877 1870 大学東校(東京大学医学部)医学教師として来日。2か月後、 高知藩病院医師として働く。2か月後、横浜フランス病院の 医師として勤務。富岡製糸場、兵庫生野鉱山で医療に従事。 1877 横浜で死去。41歳 ◆ 16区85 カミュ Camus,J.J.Henri 1842−1863 1863.10.10 武州久良岐郡井土谷村(横浜市南区井土ヶ谷) フランス陸軍少尉カミュと士官2名乗馬を楽しみ、 井土谷地先で浪士3名に襲撃され絶命。 幕府はカミュ父に35000ドル支払い、解決。 ◆ 16区 フランス記念碑
【参 考】
『横浜外人墓地—山手の丘に眠る人々—』
武内 博著 編集協力 東海林静男・斎藤多喜夫 (昭和60.11 山桃社)
横浜外国人墓地管理事務所に写真掲載の許可を頂きました。
会員:YOSHIDA Ikuko
写真:会員:TSURUTA Kei