博物館「明治村」を訪れて (2018-05-20)

緑生い茂る季節がやってきた。
毎年この季節は来るが、一つとして同じ草木は無く、今年も新しく緑の風景が現れ、新鮮で清々しい。時は巡る。一直線に進むのでなく、少しずつらせんを描きながら・・・。
名古屋駅で会員と集合した我々は、名鉄犬山線で犬山へと向かう。電車は濃尾平野を走っていた。フラットの土地は車窓から一目で見渡せ、風景が飛び込んでくる。
紫陽花が色づき、黄菖蒲が咲き、田んぼには水が張られていて、そこに青い空が映っていた。犬山駅から目的地の明治村までは20分ほどである。バスは蛇行しながら丘へと登っていくと、そこに明治村があった。
明治村は100万㎡と日帰りの我々にはあまりに広く、この度はフランス人の関わった建築物にほぼ限定して見学することにした。

西郷従道邸

西郷従道邸の内部

村内地図には、
一丁目(8) 西郷従道邸     (明治10(1877)年代)
三丁目(29)品川燈台      (明治3(1870)年)
四丁目(36)歩兵第六聯隊兵舎  (明治6(1873)年)
五丁目(51)聖ザビエル天主堂  (明治23(1890)年)
   (56)大明寺聖パウロ教会堂(明治12(1879)年)
があり、
まずは、一丁目の西郷従道邸へと進む。
明治10年(1877)代、フランス人技師レスカス(Lescasse,J.)の設計による半円形状に張り出したベランダを持つ瀟洒な洋館が、薩摩を思わせるシュロの木と共に青空の下すっくと立っていた。
レスカスは耐震性を考慮して屋根に軽い銅板を用い、壁の下方にはレンガを錘替わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防ぐ工夫をとっている。日本で活躍した建築家はまず地震対策を考えたようで、彼は後に日本建築の耐震性についての論文をフランスの学会に発表している。
窓はフランス窓と呼ばれる窓で、私の知っているフランス窓は外に向かって開かれると思っていたが、ここでは内開きのガラス戸に外開きの鎧戸が備えられていた。入って玄関すぐの一階から二階に通じる階段の曲線は一際美しい。
室内は今これから従道が明治の客人と会食でも始まりそうなテーブルセッティングを施していた。壁にはこの季節からか牡丹と鳥の花鳥画が掛けられていて、 フランスの建築の中、そこに日本があった。
次に品川燈台を目指すが、そろそろお昼時とあって途中の小さな食事処なごや庵に立ち寄る。会員達はそれぞれ名古屋名物きしめん等取っていたが、前々から味噌カツなるものがどんな味なのか気になっていた私は、それを頂く。成程これが味噌カツと満腹もさながら未知なる物を征服できた満足感で店を出、次に向かった。

品川燈台
三丁目(29)、明治3年(1870)築の品川燈台。
江戸から引き継ぎ明治政府は灯台建設に取り掛かる。観音崎、野島崎、城ケ島、品川とこの四つの灯台は、フランスのヴェルニー所長務める横須賀製鉄所の建築課長でフランス人技師フロラン(Florent,L.F.)により建設された。
それは避雷針の先端まで約9mという白い円筒形のかわいらしい灯台で、入鹿池(日本一大きい溜池)を背に立っていた。建設当初は円筒レンガ造りであったが、明治村に移築の際、強度の規定上コンクリート造りになった様である。金属部、ガラス部等はフランス製であるが、レンガは横須賀製鉄所で製造されたものが使用されていた。ここにも日仏交流の原点である横須賀製鉄所製の功績を見つけ何故か心がほころぶ。
青い空が反映した入鹿池に、静かにくっきりと美しくたたずむ白い灯台の姿は、当時の品川沖に立つレンガ造りの灯台を思い浮かべる。
因みに菅島燈台(三重県鳥羽市)は、明治6年(1873)イギリス人ブラントンの設計管理により建てられたが、そこではイギリス積みのレンガ造りである。
次に四丁目(36)歩兵第六聯隊兵舎へと移動した。
日本は幕末から維新にかけて列強の軍事力に対抗すべく近代化を進め、薩摩、長州はイギリス方式を、幕府はフランス方式を取り入れた。明治になると軍事方式のみならず訓練方法、兵舎等軍用建造物についてフランスから学び、明治6年(1873)、歩兵第六聯隊兵舎が建てられた。
この建物は見るからに簡素であるが、構造は頑丈で外側の柱はすべて土台から軒に達した太い通し柱になっており、壁下地になる木摺を斜めに打ち、瓦を張って、白漆喰で仕上げている。ここでも我が国の地震を考慮し、火災にも強く断熱性もある物にしている。何せ大戦にも耐え、昭和38年まで使用されていたというのであるから、いかに堅牢な建築であるか歴史が証明している。

聖ザビエル天主堂

聖ザビエル天主堂の内部
それから我々は五丁目に入り、聖ザビエル天主堂の前に立つ。
この建物は明治23年(1890)フランス人ビリオン(Villion)神父の監督の下、近世初頭日本にキリスト教伝道に務めたフランシスコ・ザビエルを記念して建設された。
ゴシック様式の協会は、聖母マリアを暗示するという美しいバラ窓を正面壁面に施していた。内部はやはりゴシック様式であるが、柱は角柱にいくつもの細い丸柱をつけ、束ね柱にし、木造で造られていた。ここにも設計の原案はフランスの設計であるが、日本人の手によって造られた我が国の木の文化が見えてくる。ゴシック建築を日常眺めていた当時の京都の人々は、何を感じていたのであろうか。
我々の目的としたフランス人が関わった建築物も村内であと一か所となった頃、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル中央玄関が見えてきた。会員もそろそろお茶を・・・という事で、帝国ホテル内の喫茶室でコーヒーを頂く。

帝国ホテル

帝国ホテルの内部

この建物は映画やテレビのドラマ等で使われていて、映像を通して何度も見ていた。メインロビーは三階まで吹き抜けとなっており、それぞれの階の空間の作り方が立体的である。彫刻された大谷石や透しテラコッタが装飾性に富み、光を美しく取り入れる工夫がされていた。
コーヒーを頂きながらホテルの内装を満喫してホッとした我々は、村内最後の目的である五丁目(56)の大明寺聖パウロ教会堂へと向かった。
大明寺聖パウロ教会堂(明治12年、1879)。その建物は丘から少し下った所にあり、皆で遠目に「なんだかフランス人が建てたというより日本人が建てたような感じだね」と言いながら下って行った。
屋根は切妻に和瓦で、壁面は腰板に漆喰という普通の農家風の建物であった。少し異なるのは鐘楼があり、切妻屋根の一番高い所の軒下に小さな十字架が掲げられていた事である。それは大変簡素な建物に見えた。
我が国では禁教が二百数十年続いたが、この建物はその後であり、まだその名残が色濃く残っているのは長崎であったからであろうか。

大明寺聖パウロ教会堂

大明寺聖パウロ教会堂の内部
中に入ると外観とは一変し、素朴な厳かさが漂っていた。少なくとも私がパリのノートルダム寺院に一歩足を踏み入れた時の荘厳で、魂がゴシック建築の高い天井まで吸い取られそうな感覚とは違っていた。ノートルダム寺院は重厚な石の文化を持つ建物であったが、大明寺聖パウロ教会堂は同じゴシック建築ながら木の文化を携えていた。列柱の一本おきに下の柱が切り取られ、リブヴォールトというコウモリ天井の骨は木製で、柔らかい曲線を描き、白の漆喰の壁とのコントラストが優しく、大変美しい。小さな教会堂で人々をなるべく多く入れる為、柱を切り払った様であるが、それで強度が損なわれない技術に驚く。
これはフランス人宣教師ブレル(Bourelle)神父の指導の下、伊王島の大工棟梁大渡伊勢吉によるもので、彼は若い頃大浦天主堂の建設に携わっている。ここにフランスと日本の融合がなされ、西洋とは異なる美しさを持つ教会堂が生まれた気がした。このような教会を初めて見た私は、なぜか心が温かくなるのを感じながら建物を後にする。

隅田川新大橋

天童眼鏡橋
すべての目的を終えた私達は、呑気に隅田川にかかっていた明治の五大橋と言われていた頑丈そうな鉄橋、隅田川新大橋(明治45年、1912)を横に通り、美しい弧を描く石造りの天童眼鏡橋(明治20年、1887)とその池に浮かぶ水鳥に心和ませながら、帰路に明治時代使われていたという蒸気機関車9号に乗車した。汽笛の音が心地よく、車窓からは今日一日見学してきた建築物が去っていく。
SLの終着駅から明治28年(1895)、我が国の市内電車として初開業した京都市電に乗車し、村内の京都七條駅で下車、そして最後に鉄道局新橋工場と中に置かれている明治天皇御料車(明治43年、1910)、昭憲皇太后御料車(明治35年、1902)を見学した。
そして我々は、村を出た。
武士による時代が終わり、明治を迎えると日本は目まぐるしく変わっていった。明治村の建築年代を追いながら私は思う。
当時、日本の人々が高揚感に満ち、大きな希望を持って進んでいった事を・・・。
あたかも蒸気機関車が汽笛をあげ、車輪が回るがごとく…。
平成から新元号を迎えようとしている今、我々は、何を未来に見据え、歩もうとしているのであろうか。

蒸気機関車9号

京都市電

【参考】『博物館明治村ガイドブック』
(株式会社 名鉄インプレス 平成30年3月)

会員:YOSHIDA Ikuko
写真:会員:TAKADA Nobuaki