富岡製糸場見学会 (2012-04-15)

 好天に恵まれた日、横浜より湘南新宿ラインのグリーン車に乗り、途中新宿から乗り込む会員、高崎で合流する会員と共に、子供の頃の社会見学を思わせるような楽しい旅が始まった。
 上毛富岡駅では、富岡出身の会員のお力で市の観光課長さんが迎えてくださり、途中名物「おっきりこみ」なるものを昼食でいただき、富岡製糸場の入口に着いた。そこからは、製糸場の解説員が案内をしてくださるとのこと。
 その日は良く、本当に良くて、横浜、東京ではすでに散ってしまった桜が満開で、周りに何も遮るものもないせいか、樹齢何十年もの太い幹の桜が放射線状にのびやかに伸び、時折吹く風に揺れていた。そして、その背後にまさしく堂々とフランス積み建築が目に入る。
 クリスチャン・ポラック氏の『絹と光』より富岡製糸場のことは僅かながら頭の片隅にあった私は、明治政府から雇われたポール・ブリュナのもたらした建築(横須賀造船所で働いた建築家エドモン・オーギュスト・バスティアン設計)に感慨を覚える。
 日本の職人たちがフランス人に学び、窯を築いてレンガを焼き、その数、数十万個。目地は漆喰で下仁田の石灰を使用、建物は木骨レンガ造り、つまり木材で骨組みし、その間にレンガを入れる工法で、材木の杉は妙義山、松は吾妻と、まさしく日仏の共同の賜物が百数十年の時を経て、私の目の前にほぼ当時そのままの形で現れた。キーストーンには明治5年とある。ここで働いた人々は、新しい時代に向って光を見ていたであろう。
 解説員の方の案内で中に足を進めると敷地内もほぼ当時の姿であり、工場で繭を繰っていた工女の姿が髣髴とさせられる。当初、ブリュナ達の飲むワインから ”外国人に生血を取られる” といううわさで娘を出す者はおらず、工女達は官からの通達もあって、お国の役に立つということで、士族、華族など良家の子女(13〜25歳)からなっていた。
 労働環境は、日本人の身体にあわせた機械を置く工場とともに診療所もあり、労働時間も8時間と現在の労働時間と変わらず、厳しい規律の中でストレスはあったものの、「女工哀史」「あゝ野麦峠」と私の知る女工の劣悪な状況とは程遠いものであった。
 また、ブリュナが明治政府に週六日働き、七日目は休息日とする「職工働き方規定」を提出し、工女達にそれを適用されていて、日曜はお花見、盆踊りを楽しんだという。眼下に鏑川を眺め、美しい桜の下、足を進めながら工女に想いを馳せ、このシステムを導入したブリュナに心から感謝の意を覚えた。ちなみに、日本の役所全体が日曜制を導入したのは、明治9年4月であった。富岡はそれより早く近代化したようである。この先、日本は日清、日露戦争と突き進みつつある時代で、繭を外貨に、繭を軍艦にといわれていく中、工女達の運命も悲惨なものと変わっていったのであろうか・・・。
 この度の富岡製糸場の旅は、私の心の中にさまざまな想いを投げかけ残した。
 この良き日に、我々のお世話をしてくださった観光課長さん、場内を案内してくださった解説員の方、そして、まだ覚めやらぬ美しい明治の建築や桜に感謝しながら、会員達と帰途についた。この次は紅葉の頃、訪れたいと思いながら・・・。

【参考文献】
 クリスチャン・ポラック著 『絹と光』
 和田 英著  今井幹夫編 『富岡日記—富岡入場略記』

会員 Mrs.Ikuko


見学の模様


建物に映える桜


展示室


東繭倉庫


繰糸場内部

photo: n.takada