ヴェルニー・小栗祭式典参加と晩秋の市内散策 (2013-11-16)

 秋の恒例行事となった横須賀市主催の「ヴェルニー・小栗祭式典」が11月16日午前、市内の横須賀芸術劇場小ホール「ヨコスカ・ベイサイト・ポケット」で開催され、当会からもクリスチャン・ポラック会長代行、吉田行夫副会長ら9名が列席しました。
 また、昼食を挟んで午後からは、市内の歴史的な建造物などを巡りながら、色鮮やかな晩秋の風景を堪能し、会員相互の親睦を深めました。
 今さらヴェルニー、小栗の横須賀における功績を述べることでもないだろうが、簡単に振り返ってみよう。
 時代は幕末、江戸幕府最後の勘定奉行を務めた小栗上野介忠順は、1860(万延元)年に日米修好通商条約批准のための遣米使節として渡米、世界を一周して帰国するが、その時、痛感したのが日本の近代化の推進には造船所の建設が必要ということだった。そこに登場するのがフランス人技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニーである。 
 在日フランス公使レオン・ロッシュの要請で1865(元治2)年に来日したヴェルニーは、幕府の小栗ら製鉄所設立委員と共に設立原案を作成し、その時、立地として選定したのが当時はまだ寒村の横須賀村だった。技師の選定や機材の購入のため、一旦帰国したあと再来日し、建設工事の指揮をとることになる。しかし、工事半ばで明治新政府が誕生し試練の場を迎えるが、幸い工事は継続され、1871(明治4)年名称は横須賀造船所と改称されたものの無事竣工した。
 以後の横須賀は、この造船所を中心に発展するは御承知の通りであるが、その端緒となった製鉄所の建設に功績のあった小栗とヴェルニーを顕彰し、追慕しようと、1952(昭和27)年から市主催の式典が挙行されている。
 また、ヴェルニーに縁のあるブレスト市とは姉妹都市を結ぶなど広く日仏交流の原点と位置付けられている。
 式典には、吉田雄人横須賀市長、クリスチャン・マセ在日フランス全権大使など縁の関係者約200名が出席、それぞれ花輪供呈や式辞・祝辞を述べた。
 今年は特に小栗の終焉の地にある高崎市立倉渕中学校音楽部12名が海上自衛隊横須賀音楽隊と合同で、福田洋介さんが小栗のために作曲した吹奏楽曲「小栗のまなざし〜小栗上野介公に捧ぐ〜」を演奏、万雷の拍手を送られていた。
 余談ですが、同校は、地元出身の佐藤達雄氏(スーパー「オオゼキ」創設者)の基金を基に、全校生徒が「一人一楽器」で吹奏楽に取り組んでいるそうだ。

 午後はいよいよ晩秋の市内散策だが、N会員が式典後のレセプションで偶然再会した中学・高校の後輩で、小栗顕彰会のAさんも同行、楽しい顔ぶれとなった。
 スタートは丘の上の横須賀上町教会である。日本キリスト教団の教会として110年の歴史があるが、現在の木造のシンプルな建物は82年前に造られたそうで、国の登録有形文化財に指定されている。宮澤恵樹伝道師は「国の指定を受けているため、思うように修理や改築もできません」と悩みを話すが、骨董的なオルガンや内部の装飾には歴史の重みを感じさせる。
 外に出ると上町商店街。この地域は海軍の町のベットタウンとして栄えたそうだが、その住民の衣・食を賄ってきた。看板建築や出桁造りという、風格のある商家が数多く残っているが、その一つである「みどり屋」を覗いた。応対して頂いた女将さんの説明によると、創業は大正14年で、代々呉服屋を営んでいたが、今はお祭り関係の品物を扱っているという。漆塗りの柱やショウケースも昔のままで、外観は銅版が張られた見事な看板建築である。
 平坂から京急横須賀中央駅を左に見ながら坂を下り、駅前の現在の繁華街を歩き、街路樹や市役所前の紅葉に晩秋を感じながら、次のポイントの横須賀学院を目指す。
 横須賀の観光スポットの一つである三笠公園に隣接する横須賀学院と神奈川歯科大学の校内は、終戦まで海軍機関学校があったのは周知の通りである。しかし、その面影はほとんどなく、横須賀学院の校内の一角に建つ「海軍機関学校跡」の碑は知る人でなければ分からない。
 ただ、神奈川歯科大で教鞭をとっていたN会員に案内された門柱は、唯一の生き証人であろう。この門扉は米軍基地に繋がるため、現在は閉鎖されているが、校内中央の通路は、当時のままの広さで、海岸まで続いていたことを物語っており、N会員が持参した機関工機学校当時の構内配置図の説明を聞いていると、まさにタイムスリップしたようだった。
 さらに、一行が関心をもったのが校内のジャカランダの木。世界三大花木といわれる南米原産の巨木だが、春になると紫の花が咲き誇るそうで、植物学者のT会員も「ここでジャカランダを見れるとは」と感動されていた。

 横須賀の歴史に触れ、そして、思いがけない出会いと感動満載のタウンウォークであったが、天候にも恵まれ、充実した一日でした。

会員 H.K.